水野勝成ってどんな人?

全国的にも、福山市民にさえあんまり知られていない福山城主、水野勝成。
こんなにインパクトが強い武将なのに、何故なのか……?勝成の数々の破天荒エピソードをご紹介します。

水野 勝成

1564年
刈谷(愛知県)出身
家康のいとこ

初代福山藩主
水野勝成

Trade Mark

二本沢潟

二本沢潟

裏永楽

裏永楽

1582

初陣で首級を上げまくる勝成
16歳の初陣で15の首級

この時の戦果であの信長から感状を与えられる。普通は初陣で15も首級を上げるなんて無茶はしない。今で言うとインターン中に大型案件を何本も受注する様なものである。勝成、初っ端からエンジン全開だった。

一番乗りで敵を蹴散らす勝成
2000vs10000という圧倒的多数な敵陣を撃退

黒駒合戦にて鳥居元忠、三宅康貞と共に一万の北条勢に二千の兵で応戦する。勝成はこの時、出陣を知らせず単独行動した元忠に抜け駆けだとキレて、結局自分が先陣を切って突入。元忠「解せぬ……。」しかしその結果、約300を討ち取って撃退したという。この時勝成はまだ10代である。

1584

兜の代わりに鉢巻で乗り切ろうとする勝成
兜なしでも一番首

小牧・長久手の戦いに家康陣営で参戦した際、結膜炎の眼痛で兜を付けていないのを父・忠重に叱責され、反発。「兜がなくて死んでも時の運。一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい」とその場で暇乞いして、そのまま敵陣に突入、そのまま一番首を取ってそのまま家康に持参し、以降家康の元で行動することに。兜なしで戦に参加するだけでなく、さらには有言実行して一番首まで獲ってくる……狂気の沙汰である。

ホームレス勝成
大アウトロー時代の始まり

父の部下に悪行をチクられたのに逆ギレして、斬り捨てる。父・忠重は激怒して勝成を勘当、以降どの藩主の元にも仕えられぬよう、奉公構(業界出入り禁止)のお触れを出した。働けなくなった勝成はホームレスになり各地を転々とした果てに京都へ。そして京の町に出ては多くの無頼の徒と交わり、大喧嘩をして、また斬り捨てる。この猛将を野に解き放ってはいけなかったのだ……。

1585

700石を蹴る

織田信雄の肝煎りで秀吉の陣営に。四国征伐の成果を認められ、秀吉から700石の知行を授かるが、なぜか逃亡。逆に秀吉から刺客を放たれたという。ホームレスから一転、今で言うと年商5千万円ほどのセレブになれたのに……金も名誉も、勝成を縛れるものはなかったのである。

1587

引く手数多の勝成
戦国最強のフリーランス

今まで信長、家康、秀吉と名だたる武将の元で働いてきた勝成だが、職場を九州に移してからも、佐々成政、黒田長政、小西行長、加藤清正など、そうそうたる武将のもとへ仕官。一番首プレーヤーとして怒涛の活躍をする。しかし、いずれの職場も定着することなく、輝かしい戦績を残しては、間も無く逃亡。さすらいのスーパーフリーランスの名をほしいままにする。

様々な職種の逸話がある勝成
虚無僧?姫谷焼の器職人?謎の経歴

戦国フリーランスとしての1000石のセレブ生活を蹴ってふたたび放浪の生活へ戻った勝成。この時代の逸話も多く、虚無僧になった、姫谷焼の器職人になった、など様々な真偽不明の伝聞が残されている。最終的に備中国成羽の国人・三村親成の食客となるが、月見会の席で茶坊主の処置を無礼なりとして斬り、三度の逃亡。しかし、翌年戻ってきては世話役の娘に手を付け、子供をもうける。オンもオフも自由すぎるよ、勝成。

1599

長い放浪生活の末、15年ぶりに父、忠重と和解。しかし、間も無く忠重が殺害されてしまい、刈谷藩主を相続することに。

1600

関ヶ原の戦いで放浪時代の人脈力発揮

水野家当主となった勝成は家康の元で、勇んで関ヶ原の戦いへ。本戦への参加を願いでるが許されず、大垣城への抑えとされた。しょうがないので大垣城を責めることにした勝成は、放浪時代の人脈を生かして敵を寝返らせることに成功。その後も父の仇を含め数々の首級をあげる。この時の功績により日向守の官位を授かったが、日向守といえば裏切り者明智光秀。皆から避けられていた官位にも関わらず、勝成は喜んで日向守を名乗った。以後はその勇猛さから、「鬼日向」という仇名で呼ばれることに。

1614

やめろと言われるほど一番乗りしたくなる勝成
最高責任者でも一番乗りしたい!!

大坂冬の陣は軍の最高責任者として、息子とともに参加。勝成の性格を知る家康からは「もう責任者なんだから、一番乗りとかそういうのやめろよ」と釘を刺されるも、それを壮大な前振りだととった勝成は、やっぱり自ら先陣に立ち、大坂城に一番乗りを果たしてしまう。このとき敵方に鬼日向の異名が知られていたようで、勝成の馬印を見るや退却していったという逸話も。ちなみに当時勝成は51歳。もう、無茶をするのもほどほどに……。

怒りの家康
ホトトギスも待てる家康がおこ

命令違反した勝成に家康は、大和郡山6万石への加増転封を命ずる。正直言って2、30万石くらい貰えるだろうと期待していた勝成は憤慨したというが、家康はもっと怒っていたであろう。

1619

きれいな勝成
破天荒が一転、福山で名君へ

家康が亡くなった後、やっと福山10万石を与えられた勝成。そこから、放浪時代に培った人脈、知識、経験を大いに活かして、素晴らしい治世を始めた。その功績は、城下町の建設、産業の育成や全国初ともいわれる藩札の発行、全国2位の規模の上水道の敷設、荒らされていた神社仏閣の修理・再建等など数え切れないほど。戦場での破天荒具合からは想像もできない名君ぶりに、周囲も驚いたとかなんとか。

1638

一番乗りを狙おうとする勝成(75歳)
孫と出陣する75歳

島原の乱に九州の大名以外で唯一の参陣。勝成(75歳)は、息子、孫とともになんと三世代で戦へ。水野軍は最後列にいたがやっぱり本丸一番乗りを争った。何歳になっても、一番のりはやめられない。

1639

隠居後も変わらぬ福山への愛

息子に家督を譲りようやく引退。しかし、隠居料の1万石も領内の投資に注ぎ込むなど、隠居後も福山のために貢献した。勝成の政策により、福山藩は最終的に10万石から15万石へと大きく発展した。 87歳の時でも鉄砲を的に的中させ、周囲を驚かせたという勝成。健康オタクと言われた家康でさえ75歳で死去した時代に、88歳まで長生きし、福山城下の賢忠寺に葬られる。命知らずな生涯にも関わらず、長寿の末の大往生だった。